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仕事は冴えずとも心優しかった藤原道綱

紫式部と藤原道長をめぐる人々㉟

 藤原実資(さねすけ)には「一文不通の人」(『小右記』)と評されている。これはろくに文字も読めない人という意味で、「名前は書けるが一、二も知らない」、「ごくつぶし」など、かなり厳しい評価が下されている。また、藤原行成の『権記』にも、儀式の際にちょっとした誤りをしたことが記載されており、わざわざ記録されていることから、当時の人たちからの評価は著しく低かったと推測される。

 

 母の藤原道綱母は、紫式部も強く影響されたという日記文学『蜻蛉日記』で知られる文人であるが、道綱の恋文の代筆を行なっていたという逸話まである。『蜻蛉日記』に「幼き人」と記述されているから、母からは子ども扱いされていたようだ。たいそう甘やかされて育った人物なのかもしれない。

 

 しかし、986(寛和2)年に兼家の画策により花山天皇が退位に追い込まれた事件である「寛和の変」では、道隆とともに天皇家の象徴である「三種の神器」を運び出す重要な任務を果たした。父・兼家の出世に利用された形とはいえ、この直後に従三位になるなど一気に昇進。公卿となっている。

 

 また、兼家の足が遠のいたことを嘆いた母が出家を匂わすと、道綱もまた、自分も僧になる、と泣きながら寄り添う姿勢を見せたという。母なしには生きてはいけない軟弱者と見ることもできるが、悲しむ人を放っておけない心優しい一面があったと捉えることもできそうだ。

 

 道長の庇護を受けて大納言にまで昇りはしたものの、その後の昇進はなかった。道長の子である頼通が実権を握る世になっても、道綱は「どうしても大臣になりたい」と道長に懇願を続けていたようだが、ついにその夢はかなわなかった。

 

 1020(寛仁4)年1013日に病を理由として法性寺で出家。同月15日に没した。享年66

 

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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